Cigna kanto

何を残そうか

天川村への道程

f:id:boozy:20160509161334j:plain今年の正月、突然に思い立った願掛けの旅も折り返しを迎えました。巡礼先に選定した弁天様と市杵島姫命にまつわる13社寺の中で一番の難所(交通の便が至極よろしくない)、天河大弁財天社へGW前半に赴きました。

目指す天川村奈良県の南部に在り、鉄道でのアクセスありません。奈良と言いながらも紀伊山地と言った方が的を得ていて、秘境として名高い十津川村や、世界遺産である大峯山が在るエリアになります。

一般的な交通案内で紹介されている路線バスの乗換も考えましたが、何時間かかるのか不明でしたし、往復その行程を取るのはしんどい感じでしたので、大阪に宿泊していた私は近鉄南大阪線橿原神宮前まで移動して、そこからレンタカーを借りることにしました。(天川村の最寄駅は下市口駅ですが、レンタカーはありません)

距離的には1時間程度(橿原から約40km)ですが、高地へ向かっての山道ですし、橿原市内で若干の渋滞もあり、いくつもの長いトンネルを抜けて2時間弱で現地に到着しました。

山間部の峡谷添いに小さく広がるのこの村は標高が800mほどあり、日差しの強い休日でしたけれど、とても涼しい場所でした。国道309号線以外の道は細く静かです。

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天河大弁財天社は小さな里山(もしかすると人工かもしれない)の上に鎮座しています。少し面白い造りをしていて、鳥居をくぐり石段を上ると拝殿の正面ではなく左側に出ます。目を引くのは大きな舞台、舞台を持つ神社は少なくありませんが、拝殿を挟んで本殿正面に直線的に配置された造りは珍しいと思います(神様へ舞を奉じる位置としては絶好なのかもしれませんが)。

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江戸時代までは弁財天を本尊とする寺院でもありましたが明治の神仏分離令によって廃寺、祭神市杵島姫命にして神社として存続することになります。前回おとずれた琵琶湖の宝厳寺と同様、明治政府の御達しがこの山深い天川村にも及んでいることに驚きもしますが、天河神社は奈良の吉野が近いこともあり南朝皇室との関係も少なからずあり、神社の裏には「南朝黒木御所跡」という歴史を感じる遺構が在ることから、頷けもします。

ここでは南朝天皇の御霊も祀られています。

御朱印を集める願掛け旅行を始めたことで、明治維新による神仏分離令によってそれまでの信仰文化ががらりと変わってしまったのだということを知りました。色々と見識を広げる度にふと「そもそも神と仏とは何ぞやか」という感覚にもなってきました。

 

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明治がやってくる前まで、寺と神社は併存していて、正に神仏習合の信仰が日本のスタイルでした。面白いのは、仏法に帰依するような本格的な仏教との関わりというよりも、ヒンズー教とミックスされた仏神への崇敬が日本の民衆に広まったのは、古来からあったアニミズム的「八百万の神」が顕現したように思えたからではないでしょうか。江戸時代までは恐らく民衆の間では神も仏も大きな区別はなかったような気さえします。

今でも人気がある弁天や大黒天はヒンズー教の神ですし(ヒンズー教は釈迦をも取り込んでいます)、七福神のうち日本古来の神は恵比寿様だけです。ごちゃ混ぜ御利益も大歓迎の我が国の文化は今に始まったことではなく、綿々と古代から続いてきていると思います。

成立直後の明治政府神道の国教化もテーマとしていましたが頓挫しています。以前にも書きましたが、明治維新時に行われた文化統制は瞬間的には効力がありましたが、ことごとく失敗に終わるものの、政変の過熱感が残した文化的な傷跡は思いのほか大きいような気がしてなりません。