Cigna kanto

何を残そうか

廃仏毀釈は暴動だった--- 4組の八王子

もう一度、日吉大社を訪れる必要がありそうです。

八王子という地名の由来について調べていて、その「8人の王子とは誰なのか、誰の子ども達なのか」という疑問が湧いてきました。追ってみると少なくとも4組の八王子が在ることが判り、各々には関係があるのかどうか、地名や寺社の由来となった8人の王子とは一体「どの王子たちだったのか?」気になりだして資料を読み漁り始めました。

 

f:id:boozy:20160226171435j:plain

昨年、滋賀の大津市に在る日吉大社を訪れました。日本各地に数ある八王子という地名の中で最も強くその所以を残しているように思ったからです。日吉大社は大社と言っても1つの大きな社が在るのではなく、八王子山の山麓に散在する主要7社を含む約40社の総称が「日吉大社」となっています。

また、日吉大社の境内には八王子に関係する社もあります。
明治政府による神仏分離令が発布される以前の旧称にそれは有り、現在の牛尾宮は「八王子」と称され、八柱社は「下八王子」と称されていました。牛尾宮には「山王八王子」と彫られた石灯籠が現在も残されています(写真は昨年訪問した際のものです)。

---
1868年(明治元年)12月、今から150年ほど前、神道の国教化を目指す明治政府は神仏を混淆することを禁止します。分離令は一回の官報ではなく、複数回にわたり発布され、その発信元も太政官であったり、神祇官事務局であったりと、一つではありません。つまり慌てて発令していた、あるいは政府側でもまとめ切れていなかったと言えます。

有名な官報は慶応4年3月28日に神祇官事務局から発せられた以下のものでしょう、

「一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細に書付、早早可申出候事、但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事、

一、仏像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、附、本地抔と唱ヘ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等之類差置候分ハ、早々取除キ可申事、右之通被 仰出候事」

神社に於いて仏像をご神体としてはならないこと、仏教関連の設備、備品を排することなどが書かれていますが、特に冒頭、仏語を使用した神号は禁止とし、権現と牛頭天王に至っては名指しで神として扱うことを禁止すると言明しています。権現とは仏が日本の神の姿になって現れたものとする本地垂迹説に根差す神号。牛頭天王は仏教における神で祇園精舎を守護する存在であり、疫病を司る神ともされます。そしてこの牛頭天王には8人の王子があり、この八王子が東京都八王子市の地名由来の大元になっています。牛頭天王の不運は呼称のそのサウンド(てんのう)が天皇と同じであった事でもあり、徹底的に排除の対象とされました。
八王子市の名前の由来|八王子市

牛頭天王神仏分離令が発せられる以前、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と習合したり、蘇民将来の伝説に登場する武塔天神と同一視されたり、陰陽道に於いては天道神と同一視され、つまり非常に人気の高い神様だったのです。祇園信仰牛頭天王がその対象でありましたし、八坂神社の前身「祇園社」の祭神牛頭天王でありましたが、神仏分離令によって素戔嗚尊に挿げ替えられ、社名の変更も余儀なくされたのでした。

---

f:id:boozy:20160226170053j:plain

日吉大社に話を戻します。

日吉大社比叡山の北東側にあり、天台宗開祖の最澄が建立した延暦寺と深い関係を持っています。最澄延暦寺を鎮守する地主神として日吉社を据えたのです。最澄は更に奈良の三輪山から大物主神(おおものぬしのかみ、大国主と同一神でもある)を勧請し、元来の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)の2柱を合わせ「山王」と称しました。山王という言葉自体、最澄が日本に持ち込んだ概念です。その後、天台密教と日吉信仰が混淆して各地の日吉神社日枝神社、山王、八王子社などとなって全国に広がり、その数は3800を超えています。

その後も天台密教と日吉信仰が結びついた山王神道という新しい神道を「延暦寺」が生み出します。「延暦寺が」です。仏教が日吉権現、山王権現という和製の新しい神を生み出したのです。
(それほどに神仏が習合した時代もあったわけです。)

神仏分離令には神社に据えられた仏像、仏具を破壊せよとは書かれていないにも関わらず、激しい廃仏毀釈の動きが巻き起こります。その最初に破壊行動の対象にされたのがここ日吉大社です。往時、神社は実質的に寺勢によって支配されていて、神官側の鬱憤も背景にあるようです。

日吉大社で起きた破壊の様子はこちらのブログ良記事に詳しくまとめらていますのでご参照ください)


比叡山延暦寺は奈良の興福寺とともに南都北嶺と呼ばれ、為政者に恐れられるほどの存在でした。その強大さ故に織田信長によって焼き討ちされた過去はあまりにも有名です。その支配下にあった日吉大社廃仏毀釈の矢面に立たされたのは歴史的な封建構造への怨念があったからなのかもしれません。

f:id:boozy:20160226172029j:plain

日吉大社神仏分離令廃仏毀釈を受け、それまでの宮や社の名称を変更します。日吉大社のオフィシャルサイトにはこの変遷に関する記述が無く、宮名だけの変更だったのか祭神の挿げ替えも伴っていたのかが不明です。しかし祇園社(現八坂神社)が牛頭天王から素戔嗚尊祭神を遷移させたことを考えると、同様のことがあったのではないかと私は思っていますが、これについては、冒頭に記したよう、日吉大社を再訪して確認させていただくしか方法が無さそうです。そしてそこで旧社名である「八王子」と「下八王子」の祭神が誰だったのかも明らかになるはずです。

---
神仏分離令廃仏毀釈のうねりは、近代化を進めようとする明治政府イデオロギーとして王政復古を求めた国学者らとの間に溝が生じ、数年で形骸化し、頓挫します。

この歴史的には瞬間のような短い期間に破壊された文化遺産、歴史遺産を思うと少々気が重くなります。日本史の授業では「神仏分離令」と「廃仏毀釈」はセットで説明されますが、国からの達しと、その拡大解釈によって起こった一種の「暴動」は一線を画すものだったのだと勉強になった次第です。


---
4組の八王子については別途また記事にしようと思っていますがどの4組なのかだけは記しておきます。

牛頭天王の八王子
スサノオとアマテラスの誓約によって生まれた8人
スサノオクシナダヒメの間に生まれた8人
妙法蓮華経に登場する日月燈明仏の8人の王子